絶対他力とは、阿弥陀さまのおはたらきに一切をまかせきってはじめて救いをいただくことができるとの教えです。
阿弥陀さまは本来、人間の相対の世界を超えた絶対の真如であって、人間の知恵によってうかがい知ることができません。
しかし、その絶対の真如は、欲と煩悩にしばられる私たちに、ナモアダミブツの声となって、「我にまかせよ 必ず救う」と呼びかけられています。
阿弥陀さまの声は、私が聞くのでも、私が信じるのでもなく、かえってそのような聞こう、信じようという自力の計らいを完全に捨ててこそ初めて聞こえ、信じせしめられることから絶対他力とよばれています。
悪人正機とは、阿弥陀如来さまの救いの目あては煩悩にまみれた凡夫であるとの教えです。
そもそも人間が生きていくためには、本能とともにたくさんの欲が必要です。食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲は勿論、生きていく意欲も必要です。
しかしその欲望によって、他を傷つけ、自らをも傷つけることがあるのが人間の本当の姿です。
自分の力で煩悩を断っていくことのできる者よりも、命が尽きるまで煩悩を無くすことのできない者を目あてとしてまず救いとげるというのが阿弥陀さまのお心です。
往生浄土とは、阿弥陀さまのお浄土こそ、私たちの生きるより所であり、いのち終わって帰る所であるとの教えです。
そもそも私たちのいのちはどこから来て、どこへ向かっているのでしょうか。
そのことを知らず何も分からずさまよい続けているのが私どもの真の姿です。
阿弥陀さまの声は、私たちに本当に確かなより所といのち帰る場所を教えてくれています。
親鸞聖人は、平安時代の終わり承安(じょうあん)3年の春、京都の日野の里で誕生。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。
聖人9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)し、範宴(はんねん)と名のりました。
その後、比叡山で修行、主に横川(よかわ)という場所で不断念仏を修する堂僧(どうそう)だったと伝えられています。
建仁(けんにん)元年 聖人29歳のとき、比叡山では悟りへの道を見出すことができなかったことから、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)を行いました。
95日目の暁、聖人は救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、京都東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然上人(ほうねんしょうにん)の下へ参じました。
その後、さらに100日間、法然上人のもとへ通いつづけました。そして聖人は、ついに法然上人の主著『選択集(せんじゃくしゅう)』と上人のお姿である真影(しんねい)を写すことを許されるまでになり、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改めました。
法然上人の開かれた浄土教に対して、興福寺などの仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年、専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)されました。
法然上人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後に流罪となりました。
これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれました。
この時期、恵信尼(えしんに)さまと結婚し、男女6人の子女をもうけられました。
建保(けんぽう)2年42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち/茨城県)の稲田(いなだ)を中心として、阿弥陀さまの本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられました。
元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、本願念仏の教えを体系的に述べられた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著されました。この年は浄土真宗の立教開宗の年とされています。
嘉禎(かてい)元年63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、京都に戻られました。
京都では晩年まで『教行信証』を添削校正されるとともに、「ご和讃」など数多くの書物を著され、また関東から訪ねてくる門弟たちに書簡(お手紙)でご法義の質問に答えられるなど、終生精力的に浄土真宗の教えを伝えられました。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、聖人は京都三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で90歳にてご往生しました。